2011年01月05日

序:最初の記憶

十以上も年が離れていたけれど、私は兄信長と、とても仲がよかった。数多い兄弟の中でも、一番仲よかったのが兄と私だったかも知れない。私が物心ついたときには、兄は既に一城の主だった。父が兄に家督を譲る準備として「心して護れ」と与えた城。父母は、兄を置いて、弟妹とともに、新しくできた城にうつってしまった。広すぎてもてあます自分の城。うつろな城は、兄の心のようだったと思う。

けれどその城も、外からみれば、広い濃尾平野に悠然と聳える織田の強固な砦であった。兄が生まれ育った那古野城。中のうつろさからはかけ離れた、その外見の勇壮さ。それも、私には兄を象徴しているように思わせた。

私は兄が大好きだった。兄も私をとてもかわいがってくれた。父母兄弟がみんな新しい城に移り、まれに行き来するだけになっていたが、あるとき私だけは兄を慕ってこの城に残ったのだ。


「いや!兄上といるぅ!三郎者(さぶろうじゃ)といるの!」
「これ、市よ。兄上は古渡(ふるわたり)にもまかり越そう。これが今生の別れでもあるまいに。
 そう駄々をこねるでない。」
「いやぁ、父上、兄(あに)じゃといるぅ」
「姫様、おとなしくなさいませ」
「いやだぁ!いやだぁ!兄じゃと一緒じゃなきゃいやぁ!」

私は覚えていないけれど、まだよちよち歩きの幼子であったのに、強情に泣きじゃくり、兄の袖を握って離さぬ私を、父も母もたいそうもてあましたという。そして、最後に場を納めたのは、母のこんな一言であったと聞いた。

「兄に似て、強情な女子よな。おいてゆけばよかろう。」

母は、兄を嫌っていた。そして、私をも嫌っていたと思う。私の記憶に母のぬくもりや笑顔はまるでない。


父母を困らせた記憶はまったく残っていないけれど、兄との会話は覚えている。たぶん父母が行ってしまった後だったのだろうと思う。

「市、よいのか。父も母も行ってしまうぞ。」
「兄じゃがいればいいもん。市は兄じゃが大好き!」

そういって背の高い兄に飛びついた私を、兄は抱き上げてくしゃっと頭を撫でてくれた。明るい日の中で、兄がこれ以上はないような笑顔を向けてくれたのが嬉しくて、私も兄に精一杯笑顔を向けた。これが、私の最初の記憶。


以来私は、兄と二人で那古野の城に暮らすこととなった。その那古野城も今はない。その後兄は清洲を拠点としたからだ。今、那古野の地は、鳶が舞う一面の野原に返っているという。


posted by 臥待月 at 22:21| Comment(0) | 市の巻 明日紡ぐ者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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