2011年01月09日

序:兄信長(1)

戦国の世、乱世に生まれ、策謀や骨肉の争いの只中にありながら、けれど、兄信長はものすごく繊細な人、もろい人だった。兄はいつも苦しんでいたのを私は知っている。明日どころか、一刻先はわが身わが一族郎党を失うやもしれぬ緊張感。しかもその一族郎党でさえ、どこまで本当に身内かはわからない。現に兄は兄弟を殺(あや)め、兄弟に殺められかけて生きてきた。実の母さえ、兄を殺めようとした。そうしなければ、自分が殺(や)られる。だから兄は相手を殺めざるを得ない。

その矛盾に、兄はいつも苦しんでいた。毎日目に見えぬ何かに苛まれ、永遠に続く苦しみ、、兄はいつも地獄の中にいた。兄はなんとか苦しみから逃れようと、手がかりを求めて膨大な書物を求めては熱心に読み漁り、諸国を流浪する民を城に招きいれて話を求めた。

一方で、まるで己の身を痛めつけることを喜びとするかのように朝から晩まで弓馬武術の鍛錬に打ち込んだ。兄の馬術は常人では不可能と思われる谷を超え、野をどこまでも駆けに駆けて人を寄せ付けなかった。まさに人馬一体となった美しさに人は言葉をなくし見惚れるが、昼夜問わず野山を駆け巡る兄を、決して快く思っていなかった。


兄はいつも何かに怒っていた。その怒りがはたして何に向けられたものなのかは誰にもわからなかった。ただ兄を、傾き者、うつけ、たわけ、と忌み嫌った。でも私にはわかっていた。兄には、その眼に映るものすべてが、意味のない者に思えて仕方がなかったのだ。なぜそんな所作が求められるのか、なぜそんな装いをせねばならぬのか。兄は全てを疑ってかかり、全てを否定した。
posted by 臥待月 at 02:27| Comment(0) | 市の巻 明日紡ぐ者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。