2011年01月11日

破:江北の鷹(1)

永禄3年(1560年)、この年、二人の若者が鮮烈に戦乱の世の主役として躍り出た。一人は強大な今川義元を僅(わず)か2,000の手勢で桶狭間に蹴散らした兄信長。そしてもう一人が「近北(ごうほく)の鷹」と称された弱冠16歳の浅井長政だった。

元服を終えたばかりのこの紅顔の美少年が6,000の手勢を率いて源氏の名門佐々木六角氏に当り、3倍もの兵力差をものともせず打ち破った話は、兄の桶狭間と並び、戦国大名に衝撃をもって広まった。その戦いぶりは、鬼神の如く、臣下は皆この若者に心酔したという。人はいつしか長政を「江北の鷹」と称するようになっていた。

そんな長政に兄は目をつけた。兄は早速長政と密会の手はずを整えた。そして無謀にもほぼ単身で、長政の出城、近江佐和山に出向いていった。

◇◇◇

兄は自分に人望がないことをよくわかっていた。兄は人を恐怖で屈服させることしかできない。他の方法を知らなかったし、それが戦国の世のほかの大名のやり方でもあった。そしてまた、兄の心の奥の恐怖が、自分の優位性が失われたとき、人は去っていくのではないかという怯えを生み、優秀な臣下ほどきつく当たらざるをえなくするのだ。あたられてへらへら笑っていられるのは木下くらいだった。

だから兄は、浅井長政に逢って、心底驚いていた。恐怖ではなく、人の信頼を得た上に領袖となった男。浅井の領国、近北は守護大名京極氏が代々管領(かんれい)を務めていたが、京極氏が弱体化する中で、大小の豪族が入り乱れ、ぬきんでた統率者がいなかった。浅井はその国人(こくじん)衆の中から、皆の利益を代表する者として、皆に望まれて領主となった家柄だった。力でねじ伏せた領国ではないのだ。


兄はこの年若い大名をいたく気に入ったらしい。佐和山から帰った兄はいつになく機嫌がよかった。

「浅井はしかし、しがらみが多くて苦労するの。」と兄は同情めかしていっていたが、私にはわかる。兄は望まれて上に立つ、という自分には決して出来ぬことを、いともたやすくやってのける長政に羨望を感じているのだ。

それにしても兄が人をほめる、とは珍しい。

「兄上、いたくお気に召しておいでですね。」
「ああ、あっぱれな武士(もののふ)よ。市にもじきに引き合わせようぞ」

兄はそういってまた愉快そうに笑った。


私は佐和山での兄と長政の二度目の密会に同行することとなった。
兄は言った。「その目でもしかと見届けよ」、そういうことだった。

しかし、私を同行しての密会はなかなかかなわなかった。
私を連れての道行きが困難となってしまったからであった。

兄は桶狭間勝利の勢いを駆って念願であった美濃攻略に着手した。
美濃は領主、斎藤義龍急逝によりわずか14歳の龍興への代替わりを余儀なくされた。
その混乱を狙った兄の侵攻は当初は織田方の勝利と思われたが、織田一族から裏切りがでて、
膠着状態に陥ってしまった。

兄の領国尾張から、長政の領国北近江に抜けるには美濃を通らねばならなないが、美濃近江国境は不安定となり密使でのやりとり以外は困難となってしまった。それでも兄は時折長政とやりとりを交わしていたらしい。兄の攻める美濃斉藤氏は、浅井にとっても敵六角氏の同盟相手であり、織田と浅井の利害は一致していた。敵の敵は味方。それも織田と浅井を結びつける要因であったと思う。
posted by 臥待月 at 22:50| Comment(0) | 市の巻 明日紡ぐ者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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