2011年02月10日

破:淡海の架橋(1)

季節は秋に移っていた。私は大嶽(おおづく)の櫓に一人佇み、きらきらと光る淡海(あわうみ)を眺めていた。対岸にはうっすらと雪をかぶった比叡の山。今年の領内は豊作らしく城内にもどことなく安堵の雰囲気が漂う。どこまでも続く黄金色の波。ここ、近江は美しく豊かな国だと思う。そして、嫁いでまだ数ヶ月というのに、不思議と、ここは私の場所、近江は私の故郷なのだと思う。

長政様と初めて心通わせたこの思い出の大嶽の櫓は、小谷で一番高く、領国内を一望できる場所。時折ここへ来て、領国を眺めるのが、私のとても落ちつく時間となっていた。小谷の城内であれば、私は自由に移動を許されるようになっていた。けれどこうなるまでには、ずいぶんと周到な長政様の配慮があった。

◇◇◇

「姫、おいでください。今宵はご同席いただきましょう。」長政様が私に最初にそう声をかけてきたのはいつのことだったか。心かよわせ、毎晩のようにそばに長間様の暖かい肌を感じて眠るようになったころから、長政様は私を積極的に家臣や訪問客に引き合わせるようになった。そしてこと、家臣の前では、私に努めて話しかけてくれるのだった。

「姫は大嶽が気に入っておられるのだったな。」
「はい、殿。淡海の澄んだ水、比良の青き山々、を望む眺め、
 近江は美しき国にございますれば、心洗われる想いがいたします。」
「市よ、近江は気に入ったか」
「はい、もちろんにございます。」
「それはよきこと、そして願わくば俺にも同じことを言って欲しいものだな」
、、、大勢の家臣の前で戯れをいう長政様。軽口を叩かれて、最初は本当に戸惑った。

「、、、、、殿は、、私には勿体無いくらいのご縁でございます。」
やっと答えればすかさず
「そうか、俺もそなたを勿体無いくらいの縁と思うておる。」
と返して熱っぽく私を見つめる。一体何を考えていらっしゃるのか、、、思わず赤面してうつむけば同席のものがみな少しにやけている。けれど、それはみな概ね皆好意的であることも見て取れる。


そんなことが何回か繰り返された。私は二人きりの時を見計らい詰め寄った。
「一体何をお考えなのですか、市ははずかしうてたまりませぬ。」
長政様はふっと微笑むと、ふわりと私をだきしめた。予期せぬ反応に戸惑う私。
「可愛い人だ。あなたの言葉には嘘偽りがない。この国への愛着がにじみ出ている。」
「、、、」
思わずだまる私の瞳に、いとおしく、美しいかんばせが映る。
やがて長政様は唇を寄せ、微笑んだままで甘くささやく。
「そして、この私をいとおしく思ってくれていることも手にとるようにわかる、、、。」と。
口を吸われていなければ、思いっきりむくれていたと思う。
けれど、優しく口付けられてしまえば、もう口答えすることも抗うこともできず。
そんな私の耳元に唇を寄せ、長政様はささやく。「それがよいのですよ。」と。
そのまま抱きしめられてしまえば、私はもう、ただ胸に寄り添って幸せに酔うだけ。


長政様と心通わせた安堵感。この何ものにも替えがたい安らぎは、私に新たな力を与えた。美しいこの近江の国と、そして、その近江を心から慈しみ、そのために心血を注ぐ愛おしい人。私はこのかけがえのない希望を、なんとしても守りたい。少しでも長政様の助けになりたい。長政様と力をあわせていきたい。

そうだ、私は長政様の妻、奥向きを整え、領国を安堵し、いざという時には後顧の憂いなく力を尽くせるように支えるのが妻の務め。そのためには、城を知り、人を知り、領国をしらなくては。私は少しづつ、部屋からでて、外の世界を知るよう、努めるようにした。小谷城の様子、小谷城内外に住まう家臣、長政様の兄弟や縁者、家族。

そうして解ってきたことは、長政様がどんなに家臣に慕われているか、家臣の心の支えとなっているか、ということ。そして、私の婚姻を必ずしも歓迎していない家臣も少なからずいる、ということだった。なぜ、北江という富んだ国の領主が、尾張など水浸しの貧しい国の大名と親戚を結ばなくてはならないのか。兄を快く思わぬものたちもいた。戦国の世の習いから言えば私はいつでも織田方に裏切って帰っていって不思議のない存在、信用ならない、そうみなされても、当然のことではあった。

けれど、私への疑念は、時を追うごとに少しづつ解消されていった。そのときになって、やっと、私は長政様の意図に気づいた。家臣の織田の女に対する疑念を晴らし、信頼を得るためには長政様と近江を心から愛していることを見せ付けるのが一番の得策だ。だから、、、。わざとあんなからかい方を家臣の面前でしていたのだ、と。

私の態度は、長政様を嘘偽りなく心から慕っていることを隠しようもない。いや、つつましやかに隠そうとしても、長政様がそれを許さない。けれど、人が人を思う気持ちは、それ自体がその思いにふれる人の心を溶かす。それは、最も家臣に自然に私が受入れられる方法だったのだ。

◇◇◇

「市、やはりここか」
そんなことを考えているうち、ふっと後ろから声をかけられた。

「やっと長政様のお考えがわかりました。」そういった私に長政様は耳元でそっと答えた。
「ならもっと見せ付けなくてはなりませんね。」
甘い声にくすぐったいと思うのは、耳なのか、心なのか。思わず首をすくめる、
、、、意地悪な人。けれど、いたずらっぽく微笑まれると、それでもいいような気がしてくる。
何もかもが、、、愛しくて幸せだ。ここにきてからは。
posted by 臥待月 at 00:00| Comment(0) | 市の巻 明日紡ぐ者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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