2011年01月03日

序:戦国の姫

戦国の世の女に生まれるなんて、なんて割りに合わないんだろう。私はずっとそう思って生きてきた。弱小大名の家の女子として生まれたからには、己の意志も心も捨てて、男のために他家へ嫁ぐ。女は手駒。私もいずれそういう運命にあるのか、、そう思うと悲しかった。

だからといって、男に生まれればよかったか。それも違う。戦に明け暮れ、人を謀(たばか)り、己の保身を考える。食うか、食われるか。戦国の男はそれだけだ。


そう大きな家でもないのに、織田は血で血を洗う同族争いに明け暮れている。そして小さいが故の下克上の抗争にも。兄は弟を殺(あや)めて自分の身を守り、父は主君の人の良さにつけこんで謀殺して尾張を得た。父を労(いと)うために呼んでくれた主君の城中に病を偽って居座り、自分の家臣を呼び込んで主君を殺めてしまったのだ。主君に一体何の罪があったというのか。

でも。

明日は皆わが身なのだ。今そこで「殿」と傅(かしず)き諂(へつら)いながら忠節を繕(つくろ)っている男が、その次の瞬間、刃(やいば)を喉元に突きつけてくるかもしれぬ。一刻先には隣国が、同盟国を破って攻め込んでくるやもしれぬ。今は静かに城中で朝餉(あさげ)の刻を迎えていても、今宵この城は炎に包まれ、一族郎党自害して果てねばならぬかもしれぬのだ。

たとえ夫婦の寝屋であっても油断はできぬ。貞淑な妻が気を許したそのときに刃を向けて来るやもしれぬ。誰も信じることなく、誰に頼ることなく生きる。それがこの戦国の世なのだ。


兄信長も謀(はかりごと)で今川義元を殺め、世間に名を知らしめた。影で糸を引いているのが木下だということを私は知っている。降伏すると見せかけてまんまと敵を桶狭間におびき寄せ、兄は敵に紛れ今川本陣に忍び込み、風雨の混乱に乗じて今川を叩いた。義元さえいなくなれば、今川は烏合の衆と化す。兄はそれを読んでいた。

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2011年01月05日

序:最初の記憶

十以上も年が離れていたけれど、私は兄信長と、とても仲がよかった。数多い兄弟の中でも、一番仲よかったのが兄と私だったかも知れない。私が物心ついたときには、兄は既に一城の主だった。父が兄に家督を譲る準備として「心して護れ」と与えた城。父母は、兄を置いて、弟妹とともに、新しくできた城にうつってしまった。広すぎてもてあます自分の城。うつろな城は、兄の心のようだったと思う。

けれどその城も、外からみれば、広い濃尾平野に悠然と聳える織田の強固な砦であった。兄が生まれ育った那古野城。中のうつろさからはかけ離れた、その外見の勇壮さ。それも、私には兄を象徴しているように思わせた。

私は兄が大好きだった。兄も私をとてもかわいがってくれた。父母兄弟がみんな新しい城に移り、まれに行き来するだけになっていたが、あるとき私だけは兄を慕ってこの城に残ったのだ。


「いや!兄上といるぅ!三郎者(さぶろうじゃ)といるの!」
「これ、市よ。兄上は古渡(ふるわたり)にもまかり越そう。これが今生の別れでもあるまいに。
 そう駄々をこねるでない。」
「いやぁ、父上、兄(あに)じゃといるぅ」
「姫様、おとなしくなさいませ」
「いやだぁ!いやだぁ!兄じゃと一緒じゃなきゃいやぁ!」

私は覚えていないけれど、まだよちよち歩きの幼子であったのに、強情に泣きじゃくり、兄の袖を握って離さぬ私を、父も母もたいそうもてあましたという。そして、最後に場を納めたのは、母のこんな一言であったと聞いた。

「兄に似て、強情な女子よな。おいてゆけばよかろう。」

母は、兄を嫌っていた。そして、私をも嫌っていたと思う。私の記憶に母のぬくもりや笑顔はまるでない。


父母を困らせた記憶はまったく残っていないけれど、兄との会話は覚えている。たぶん父母が行ってしまった後だったのだろうと思う。

「市、よいのか。父も母も行ってしまうぞ。」
「兄じゃがいればいいもん。市は兄じゃが大好き!」

そういって背の高い兄に飛びついた私を、兄は抱き上げてくしゃっと頭を撫でてくれた。明るい日の中で、兄がこれ以上はないような笑顔を向けてくれたのが嬉しくて、私も兄に精一杯笑顔を向けた。これが、私の最初の記憶。


以来私は、兄と二人で那古野の城に暮らすこととなった。その那古野城も今はない。その後兄は清洲を拠点としたからだ。今、那古野の地は、鳶が舞う一面の野原に返っているという。


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2011年01月09日

序:兄信長(1)

戦国の世、乱世に生まれ、策謀や骨肉の争いの只中にありながら、けれど、兄信長はものすごく繊細な人、もろい人だった。兄はいつも苦しんでいたのを私は知っている。明日どころか、一刻先はわが身わが一族郎党を失うやもしれぬ緊張感。しかもその一族郎党でさえ、どこまで本当に身内かはわからない。現に兄は兄弟を殺(あや)め、兄弟に殺められかけて生きてきた。実の母さえ、兄を殺めようとした。そうしなければ、自分が殺(や)られる。だから兄は相手を殺めざるを得ない。

その矛盾に、兄はいつも苦しんでいた。毎日目に見えぬ何かに苛まれ、永遠に続く苦しみ、、兄はいつも地獄の中にいた。兄はなんとか苦しみから逃れようと、手がかりを求めて膨大な書物を求めては熱心に読み漁り、諸国を流浪する民を城に招きいれて話を求めた。

一方で、まるで己の身を痛めつけることを喜びとするかのように朝から晩まで弓馬武術の鍛錬に打ち込んだ。兄の馬術は常人では不可能と思われる谷を超え、野をどこまでも駆けに駆けて人を寄せ付けなかった。まさに人馬一体となった美しさに人は言葉をなくし見惚れるが、昼夜問わず野山を駆け巡る兄を、決して快く思っていなかった。


兄はいつも何かに怒っていた。その怒りがはたして何に向けられたものなのかは誰にもわからなかった。ただ兄を、傾き者、うつけ、たわけ、と忌み嫌った。でも私にはわかっていた。兄には、その眼に映るものすべてが、意味のない者に思えて仕方がなかったのだ。なぜそんな所作が求められるのか、なぜそんな装いをせねばならぬのか。兄は全てを疑ってかかり、全てを否定した。
posted by 臥待月 at 02:27| Comment(0) | 市の巻 明日紡ぐ者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする